目 次
スポーツを通じて人格向上がなしえているのか?
精神的に向上し人格者となることはスポーツのみならず人間としての大切な営みです。
残念ながら昨今のスポーツ界においてその根幹が置き去りにされたように不祥事が続いています。
金銭や権力、パワハラや男女問題など人格とはほど遠い問題が起きています。
スポーツを通じて健全な肉体と精神が鍛えられることでしたが、その神話が崩れているようです。
その原因について組織や体制ではなくスポーツそのもののありようから考察します。
人格者と勝者の混同
スポーツの語源やルーツは多様な意見があるためにさておき、現在の日本のスポーツのありようはまさに勝者教育にかなり傾倒しています。
個人個人が趣味で行うものや興業(プロスポーツ)で催されるものは種々様々な目的の下に行われますのでここで問うことはしません。
願わくは子供たちに影響がありますのでなるべく健全に行われてほしいと願うのみです。
特に考察したいのは学校教育・クラブスポーツなど青少年の育成に関わるスポーツです。
本来、保健体育は心身の発達を促進し,健康や運動についての理解を深めることでしたが、いつの間にか勝つための体の利用の仕方になっているように見受けられます。
健康のための運動ではなく、試合に勝つための技術習得です。
中学生の道場生のいるのですが、中学校の体育の期末試験にプロスポーツの時事ニュースが加えられていることに驚きました。
保健体育と勝つためのスポーツの区別ができていないことへの驚きです。
同じ走ることでも、勝つことと、健康のためでは運動の内容が変わります。
人生に必要なのはむしろ怪我なく効率的で歩き走れることで、誰よりも速いことではないはずです。
勝者を目指す運動練習のみで人格的に成長できるかは疑問が残ります。
よく優勝者が諦めない気持ちで勝利したと言いますが、単に勝利への執念・執着くなっただけかもしれまでん。
もちろん2位以下の人が諦めたとは限りません。
結果が1位だからそのプロセス(練習法など)が優秀とは限りませんが、「勝てば官軍」「勝者が歴史をつくる」といった悪癖がマスコミの影響もあって根強くあります。
2位以下の人のプロセスが優秀かもしれません。そのため「名選手必ずしも名監督ならず」という言葉があるほどです。
むしろ礼節を思うなら勝者が「練習は嘘をつかない」と言うべきではありません。それは2位以下の練習を否定してしまうからです。
「今回は運が良かった」と言う以外に勝者の礼儀は守れません。
敗者が勝者の精神性や練習を賞賛することは礼節にかないます。
礼をかく行為を自然と繰り返していては成長できません。武道において最も嫌うことです。
指導上最低留意したいこと
背景には勝者になれば幸せになれるというものが強く根ざしています。
勝者で得られるものは一時の優越的興奮です。
趣味で行う分には否定できませんが、教育上は好ましくありません。
厳しい練習をすれば自ずと精神が高まるということも、勝者が目的の練習ではかなわないでしょう。
本来教育上必要な運動とは、健全な心身を養成、生涯において日常に必要な姿勢・動作を洗練し、ひいては礼節を学び人格向上をすることであると思います。
試合とは練習の成果を試し合う場であって、試合が目的ではないはずです。
試合で勝つことが目的であるために怪我や体調を無視してしまいます。
実際あまり報道はされませんがスポーツで死亡したり深刻な傷害もあります。
試合のためのきつい練習ではなく、運動そのものを向上させる練習であるはずです。
心身が健全であれば動く事自体が楽しいはずです。実際健全な子供は動いているだけで喜んでいます。
いくつかスポーツ教育上問題点と思われるものを挙げてみます。
スポーツそのものではなくスポーツ教育です。
・成績の上位者が精神性まで肯定されてしまう。本人も勘違いしたまま指導者になってしまう。(不祥事の起きる原因)
・ルールさえ守れば後は勝つために手段を選ばないという考え
・試合勝利の絶対化。怪我を恐れずといった健康とは無縁の考え方
・厳しい練習をすること以外、人格的向上のために必要な教育をしない、またはできない
・怒鳴る、叩くなどの暴力が選手採用権(レギュラー選定など)で正当化されてしまう
・先輩が後輩に命令するといった権力の乱用(昨今これに気付き改革した大学ラグビー部が活躍しています)
もちろん全てのスポーツにおいてのことではなく素晴らしいスポーツ教育も多々あります。
帝京大学ラグビー部率いる岩出雅之監督もそのお一人かもしれません。
スポーツ教員が健全化すればそこから排出される指導者も組織のリーダーも変わりますから、不祥事は激減すると思われます。
勝者ではなく賢者を育てることに重心を置きたいものです。
これだけ普及したスポーツが子供たちの成長の助けとなるありようが整うことを願うばかりです。