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道場訓の解説

拳禅一如(剣禅一如)~真の武道教育~

書「不動智神妙録」は、江戸時代初期の禅僧・沢庵が柳生宗矩に「剣禅一如」を説いたものです。

こうしようと一筋に思う心こそ 人が誰しも抱える病である。
この病を必ず治そうという こだわりもまた病である。
自然体でいること それが剣の道にかなう。
本当にこの病を治すということなのである。
柳生宗矩

宮本武蔵も、この「剣禅一如」を志向して晩年を生きたとされています。
極真空手の創始者大山総裁は、この「剣禅一如」を志向して晩年を生きた宮本武蔵にならい、当時の「剣(武士)」を「拳(空手家)」に代えて「拳禅一如」を志しました。

従来人間は、精神と肉体の複合体であり、双方の修行による一致(一如)があってこその人間完成になります。
その完成を目指す境地こそ「拳禅一如」であるといえます。

「拳」と「禅」を極める

「拳」を極めようとすれば、攻守・剛柔・押引・強弱・速遅・直曲・高低・得意/不得意などの両側面が、「禅」を極めようとすれば、優劣・勝敗・禁欲/快楽・動静・積極/消極などの両側面がそれぞれ無数に現れます。
真剣な修行を重ねることによって、両者は一つのものの両側面として自らの内に調和します。修行を怠れば、両者は対立するものとしかみえず、どちらか一方に傾斜し、自ずと破滅へ向かいます。

積極性と消極性を例に考察してみましょう。
安易にみれば積極的な人間が良くて、消極的な人間が悪いので、自己啓発して積極的になろうと考えます。
しかし、大切なのは積極性と消極性が自分の中でバランスを持つことです。
積極性に傾けば、引くことのできない出しゃばりにしかならず、消極性に傾けば臆病にしかなりませんから、どちらに傾いても滅びるしかないのは自明です。
両者が自分の中でバランスをとった時、積極性は自律的主体性として、消極性は慎重さや奥ゆかしさとして現れます。
空手道においても引くべき時は引くという消極性は重要な要素であり、人生においてはむしろ引く方が難しい悟りです。

「拳」と「禅」の相克

それでは「拳」と「禅」が互いを失った場合はどうなるでしょう。
「禅」を失い「拳」に傾けば、欲を正当化し「強さ」「勝利」「栄誉」などが、安易な大衆からの賞賛も後押しして、当然の目標として正当化されます。勝っておごり負けて落ち込み、悔しさをバネに、一瞬の優越的刺激のために心血を注ぎます。勝敗が決した後の態度にその心がよく現れます。厳しい努力やつらい思いを重ねるほど、精神的にも向上しているよう感じでしまいますが、勝者と敗者が別の価値にみえている限り、本人は自覚していない場合は多いですが、その人物は争いしか生み出すことができません。

「禅」は「拳」の厳しい修行の結果、おのずと悟れるほど浅いものではないことに留意する必要があります。

「拳」を失い「禅」に傾けば、欲を否定してしまい争いごとを避けるようになります。自分を世俗から隔離することによって清さを保とうとするからです。
しかし、それば道場などの特定環境のなかでのみ通用する仮想にすぎず、家庭を持ち社会に生きる人間にとって無意味です。

「拳」と「禅」を一体のものとする

本当に「禅」を悟り身につけるためには、ぎりぎりの戦いの中で、こだわりを捨て不動心を保ってこその修行です。無心と無欲の境地を極め、一切のこだわりをすてる「禅」と、身体的強さを求め勝つために努力し、ひとつひとつにこだわり抜く「拳」が、一体の価値となったところに、「拳禅一如」があります。実際の生活においても同様です。
それ故に、「拳」と「禅」が一体となったところに人間完成の道があります。

真の武道教育

武道は、「拳禅一如」を志向したとき、真の人間教育として存在します。そして武道を納めた者とは、まさに「拳禅一如」を体現したものでなければなりません。
武道教育は、あくまでも「拳」を極める武術として存在しつつ、その強さを越え「禅」の完成を志向します。

さらに大切なのは道場や試合という特殊空間だけでなく、むしろ家庭や社会生活のなかに「拳禅一如」を実現することであり、その人間を育てることが武道の使命です。
家庭や社会生活のなかにある様々な両側面、一見矛盾しているようにみえるため、一方をとって一方を切り捨てたくなる時にこそ、全力で調和をはかり、新しい次元へ推し進められる人間こそが武道の求める人間像です。
勝者と敗者、あるいは強者と弱者、正しい人と誤った人などの対峙しやすい両者が一つとなれば、「美しさ」という新しい価値がうみだされ、その喜びは滅びなくなります。
武道など、「道」を伝える修行と、そうでない身体的練習との一線を画する部分です。

「拳禅一如」とは、日常生活のなかで新しく滅びない価値を生み出すための生き方に他なりません。

まさに、修行とは一見対立するようにみえてしまう二つの側面を一つに結び、新しい価値へと押し上げることのできる人間として完成する道です。

極真空手大山倍達総裁と手塚会長